創業66年を迎える株式会社プレス技術研究所(1956年 設立)
創業者の河原滋会長(享年98)は、「人と人をつなぐ技術者」として邁進してきました。
「無理・無駄・ムラ」を見つける工場診断とは、今でいう「コンサルタント」。
さまざまなジャ ンルの工場に出かけて、製造現場の実状、稼働状態を診断し、それを踏まえて改善策を提示。
金型およびプレス加工の関心を深めていくことになる。
生涯の師となる人物であり、プレス加工自動化の先駆者「大木重吉」との出会いを経て、
戦後、親しくなった優良工場に呼びかけて「近代経営者クラブ(MMC)」を結成。
そのメンバーにはそうそうたるメンバーがずらりと並ぶ。
・立石電機株式会社(現・オムロン) 立石 一真(社長)
・三洋電機株式会社 後藤 清一(所長)
・株式会社東海理化電機製作所 加藤 由雄
・株式会社ケントク 鈴木 清一(後に株式会社ダスキンを創業) ほか約二〇社が所属
(敬称略。所属、肩書は基本的に河原が知り合った当時のもの)
積極的に海外視察もおこなった。
日刊工業新聞社発行「プレス技研」の別刷を執筆
「金型の品質は、加工機が高級であるかないかには関係ない」この書き出しには、技術への想いをぐっと感じる。
第78回 型研プロモート 「これからの金型づくりと金型づかい」では、アメリカ視察での成果や考え方を事細かく執筆。
このような数々の資料が残っているというのも、弊社の歴史の重さであります。
河原滋会長と社員たち
80平米(25坪)の長屋から始まったプレス技術研究所。
もともと町工場としてつかわれていた中古の物件で始まった。
社員が集まり、事実上の創業は1957年2月。
このとき、河原滋会長は34歳。
この記事を書く時に「お宝が眠っているかも!」と同僚と上司と倉庫へ行く。
ありましたよ、先輩方の笑顔が。お宝が。
1972年~73年のアルバムを発見。
懐かしいフエルアルバムには、当時の社員催事。
社屋屋上での「納涼ビールパーティ」の垂れ幕は、どれだけ楽しみにしていたんだろうというぐらいの力の入れ方。
しかも日付いり。
慰安旅行は「スキー」当時のステータスでしたね。
運動会は、どうやら3社合同運動会。アメ食い競走らしき写真は、圧巻の激しさ。
表彰する河原滋会長の若かりし姿は必見です。
(引用:著書「河原滋卒寿記念誌 人と人をつなぐ技術者 ~義理と人情で生産性の探求」)